平成17年度
熟年大学
第1回

一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成17年5月19日

 
曼荼羅を生きる



講師
高野山大学
学長
生井 智紹 氏

                   講演要旨
繁栄と快適さをもたらした合理主義の文化も、様々な翳りを見せています。21世紀の智と実践を考えるにあたり、いのち、文化の根底にある精神性、霊性という側面を、曼荼羅の理念から解き明かします。
                                                     

今日は「曼荼羅を生きる」と言う題でお話をさせていただきます。
曼荼羅についてはいろいろな解釈のしかたがありますが、ほんとうの意味での宇宙のいのちのありようを示すものと考えていただけたらいいと思います。

今日のお話の結論から先に言いますと、現代の社会をどう生きていくか、生涯にわたって勉強してゆくことですが、それは「同じいのちを人それぞれが持ち味を活かして生きる」生きかただと・・・こんなことかと思います。

現代社会−疎外されたいのちたち −

現代は、科学的・合理的な繁栄を極めていますが、20世紀の後半から、そのような快適さのあり方に様々な形の翳りがみえてきています。 宗教間の争いや、公害の撒き散らしによる地球環境の破壊、いのちの繋がりかたが解らなくなって父母や幼子の命を奪うあう姿は、現在の社会が生み出した大きな病気です。

21世紀を本当の意味での生きることを考えると、20世紀が忘れかけていた精神あるは霊性という点をもう一度顧み直さねばならない状況にあるかと思います。

仏のふるさとにある自らのこころ

今日のお話の中心となるのは、副題の「同じいのちの多様な営み」です。
おなじいのち」と「多様な営み」とは端的にはスライドの絵⇒宇宙のいのちを人格化した「大日如来」とそのいのちの宇宙を仮に絵に表わした「曼荼羅」に示されます。その中にはさまざまな「ほとけ」たちが、同じほとけのいのちをそれぞれ多様に生かしています。・・・それが曼荼羅です。

自分たちの生きてきた社会

本当の意味での幸福ないのちを生きると言うのは、科学的、合理的に快適な繁栄を求めることだけでいいのでしょうか。人間にとって都合のよい20世紀の人間中心の精神がもたらした悲しいいのちの状況を考えるとき、人間いのちだけはなく、私達以外の動物達や山や川との関わりも大切だとする考えが、21世紀の文化を考えるときの反省として現れてきています。 この様な問題は詰まるところ、「」か「」かの問題に帰着します。 

                  

いっぽうではイスラムや西洋のキリスト教的一神教の、いっぽうでは、日本や中国、インド、或いはギリシャ神話などの多神教的な世界観があります、この「」と「」が非常に大きな問題となっています。 これは、単なる宗教に対する考え方のみならず、いのち、文化、政治、経済の問題であり、戦争を惹起しているのもこの「」か「多」のいずれかに偏ったことによる、昨今の人間の混乱の状況です。

そのような反省から、「マルチ・カルチャリズム」など多元的な価値観を認めあう方向性が出てきています。
いっぽうでは、雑多な個性の尊重が極限にまで至り、いのちといのちのつながりが見失なわれた状況にあって、自らのいのちのアイデンティティー喪失からの回復が求められています。

曼荼羅から知るいのちの育成

そこで、現代社会のなかで「密教」のあり方を考えてみます。
「大日如来」から「弘法大師空海」に伝わって、それが私達に伝わったのが密教の考え方です。そこには根源的ないのちの顕れが様々な形での文化として現れています。 同じいのちを共有しながら、顔も姿も振る舞いも、それぞれ異なる「ほとけ」たちが共に生きているのが曼荼羅の表現する世界です。

密教独特な様々な表現⇒スライドで紹介
密教独特な「護摩」⇒火、アグニ神[Agni=Ignis]の崇拝信仰スライド紹介
密教の儀礼⇒様々な道具を使っていのちの根源にあるなにかを感覚的に共有する教え

密教は儀礼を大切にする教え⇒火・水など、同じいのちの根源的に触れる人間の感覚を駆使する誰にでもわかるものでの教えです。

                     

そいう意味で真言密教の特質と文化は、壮大な時空に曼荼羅という多様な表れをしてきました。⇒スライド紹介。

曼荼羅の教えが21世紀に生きる現代人たちにとっていかような役割を果たせるでしょうか。欲にまみれた人間の思考の枠を取り払ったとき、他の人も動物も、同じ仏のいのちを生きている・・・・そういう意味では、それぞれのいのちを、それぞの生かしたがで生きている、それに気付くことが大切なことを教えてくれます。そのようないのちの生かし方が、それぞれの個性を生かした生き方に連なって行きます。それが誰もが仏と同じいのちを生きているという曼荼羅の理念です。

曼荼とは、人間の本質本源的なもの。 それを共有している広がり、集まりが⇒です(インドのサンスクリットでは、羅とは〜を伴っている・・ことを示します)。従って、いのちという根源をそれぞれ伴っていながら、いま皆さんのような形で集っておられるのが曼荼羅です。 

ご詠歌に、「阿字の子が、阿字のふるさと立ち出でて、また立ち返る、阿字のふるさと」という曲があります。

                      

 という本源的なものから生まれた筈の子が、ふるさとを忘れて彷徨い出ても、またいつかは同じいのちを生かしあっていた故郷に戻って安らぐというのです。 このとは、(梵字のスライド投影)宇宙の本源的ないのち、或いは大日如来を表現しているものです。 全てのものがこの阿字に帰入することを示し、自分の根元的なあり方が、再びそこに戻っていく安らぎの場を表現しています。

宇宙全体を示す五輪の塔婆⇒スライド投影

この世界全体が「」から展開していることに気付きさえすれば、それぞれのいのちが別個のそれぞれのいのちでなく、根源的ないのちを活かしあって共有する広がりである曼荼羅の宇宙の認識に行きつくのです。

その宇宙は決して絵に描いたものだけでなく、私達の日常そのものが曼荼羅の世界です。今わたしの眼からは、お集まりいただいた皆さん方が、それぞれの位置でそれぞれ曼荼羅をかたちづくって生きておられるお姿に見えます。

     = 

本源のいのちと曼荼羅の宇宙

曼荼羅の世界では、全てが全ての人のいのちの尊厳を認め合い、それぞれの人の価値を評価しあってお互いに供養し合いなが生きています。それが本来のいのちが生かしあっている社会の姿であります。

曼荼羅をどうやって生きていけばいいのでしょうか。結論としては、先ず根元的ないのちを認識する、ということです。 そこから生まれるてくる同じいのちを生きているという他の人との共感、その慈悲という根本的な働きに基づいて、いのちを生かすというのが、私達の実際の生き方になります。

本来のいのちの自覚 −自らのいのちを育むことの自覚−、そして他のいのちへの共感−他の生への思いやり、これが曼荼羅の理念の具体的な活かし方です。






5月 講演の舞台活花